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演者
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プロフィール (備考)
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十代目_金原亭 馬生
(きんげんてい ばしょう)
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昭和3年(1928) 1月 東京に生まれました
戦時中 海軍の予科練に志願しましたが 不合格
昭和18年(1943) 父 (五代目古今亭)志ん生に師事します
そして いきなり二ツ目で初高座を踏みますが 父 志ん生に付いたと云っても
志ん生さんは 中国大陸訪問団に参加した為
この間は他の多くの師匠に付いて稽古し 独自の話術を身に付けました
昭和24年(1949)10月 (十代目)金原亭馬生を襲名して 真打と成りました
父の名声に隠れた存在でしたが 師匠 先輩に稽古を付けてもらった噺の数は多く
独自の語り口を創り出し 「人情噺」を得意とし
大看板の風格を備えた その矢先 54歳で亡くなりました
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2
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五代目_一龍斎 貞丈
(いちりゅうさいていじょう)
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明治39年(1906)8月 三重県のお生まれです 生後すぐに両親が移住した横浜で育ちます
早稲田実業中等部在学中から 講釈師を志していました
大正14年(1925) 四代目昇龍斎貞丈(しょうりゅうさい ていじょう)に入門
師匠の前名 (昇龍斎)貞一を名乗ります
昭和5年(1930)4月 真打に昇進しましたが
師匠の(四代目昇龍斎)貞丈が亡くなった為 六代目一龍斎貞山の預かり弟子となり
翌(昭和)7年(1932)3月 五代目(一龍斎)貞丈を襲名しました
流麗な口調 柔軟な芸風で
一龍斎派のお家芸「赤穂義士伝」の他 幅広く多数の演題をこなし
又 新作も手掛けて 新境地の開拓にも努力されました
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3
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八代目_三笑亭 可楽
(さんしょうてい からく)
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明治31年(1898)1月 東京の下谷に生まれました
家業の経師屋を継ぐべきところ 芸事に溺れ 友人であった
三遊亭圓菊 後の五代目古今亭志ん生の手引きで
大正4年(1915) 初代の三遊亭圓右に入門 (三遊亭)右喜松(うきまつ)
間もなく (七代目)翁家さん馬の門に移り (翁家)さん生 から (翁家)馬之助を名乗りました
大正13年(1924)3月に 春風亭柳楽(りゅうらく)と改名して真打に成り
昭和15年(1940)に 六代目春風亭小柳枝と成ります
昭和21年(1946)5月 八代目(三笑亭)可楽を継ぎました
温厚で礼儀正しく 人柄は定評がありました
地味な存在で「らくだ」「反魂香」等 得意にしておりました
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初代_木村 重松
(きむら しげまつ)
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明治10年(1877) 東京の神田に生まれました
初めは 桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)に入門します
後に 初代(木村)重勝に入門して (木村)重松を名乗ります
明治35年(1902)に真打と成り、
関東浪曲の「睦会」を主催し 寄席の大家としても活躍しました
「慶安太平記」「しんぞう兄弟(*01)」等を得意としました
後に 二代目(木村)重勝を名乗りました
*(*01)「しんぞう兄弟」 漢字詳細不明
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三代目_三遊亭 小円朝
(さんゆうてい こえんちょう)
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明治25年(1892) 東京の下谷に生まれました
父は二代目の(三遊亭)小圓朝です
16歳の時 父の門人となって (三遊亭)朝松(ちょうまつ)を名乗りました
大正6年(1917) (二代目)橘家圓之助(たちばなや えんのすけ)と改名して真打
大正11年(1922) (四代目)三遊亭圓橘(えんきつ)を襲名
昭和2年(1927)に 父の名前 (三遊亭)小圓朝を継ぎました
本格的な芸風で「あくび指南」「笠碁」等を得意としていました
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三代目_春風亭 柳好
(しゅんぷうてい りゅうこう)
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明治21年(1888) 4月 東京の浅草に生まれました
初め 二代目柳亭燕枝(りゅうてい えんし)の門に入って
(柳亭)燕玉(えんぎょく)を名乗りました
大正6年(1917) 四代目春風亭柳枝の一門で (三代目春風亭)柳好の名を継ぎました
昭和8年(1933)頃 一時 幇間(たいこもち)に転じた事もありましたが
すぐに噺家に復帰しました
「野ざらし」「蟇の油」「ずっこけ」「幇間腹」等を得意としていました
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五代目_柳家 小さん
(やなぎや こさん)
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大正4年(1915) 1月 長野市に生まれ 東京の浅草で育つ
昭和8年(1933) 四代目の(柳家)小さんに入門
昭和22年(1947) (九代目柳家)小三治 を襲名して真打
昭和25年(1950)10月 五代目(柳家)小さん を襲名
平成7年(1995) 人間国宝に指定される
師匠は四代目(柳家)小さん だが 三代目 四代目(柳家)小さんの芸風を踏襲し
「粗忽長屋」「うどん屋」等の「長屋物」「粗忽物」等を得意とする
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五代目_古今亭 志ん生
(ここんてい しんしょう)
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明治23年(1890) 6月 東京の神田に生まれる
明治41年(1908)頃 二代目三遊亭小圓朝の門で (三遊亭)朝太 と名乗る
大正14年(1925) 4月 講談の(三代目)小金井芦洲(こがねい ろしゅう)に弟子入りをし
(小金井)芦風(ろふう)の名で講談に転向した時代がある
少しの期間ではあるが この時の修業が
「人情噺の骨格を創ったのではないか?」と云われている
講談を体験した噺家さんとしては 三代目三遊亭金馬さんがいる
また 落語を体験した講談師では (十二代目)田辺南鶴(たなべ なんかく)さんがいる
大正14年(1925) 9月 - 古今亭志ん馬(落語に復帰)
昭和14年(1939) 3月 七代目金原亭馬生を改め
49歳のとき 五代目古今亭志ん生を襲名 が この間に17回も芸名を変えている
志ん生を襲名してから (八代目)桂文楽と共に 落語界の第一人者として活躍
昭和36年(1961) 病に倒れ その後復帰するが
昭和43年(1968)10月 落語会の高座が最後となる
師匠の四代目橘家圓喬 (初代)柳家三語楼をはじめ
多くの師匠から学んだ物を 自らの芸風に取り入れる
その(四代目橘家)圓喬さんは
当時「名人」と云われていた 三遊亭圓朝の一番弟子であった人
伝統ある話術を元に 志ん生さん流に造り上げた
天衣無縫の中に人情の機微を表現し 独自の芸風を築き上げ
「火焔太鼓」「お直し」等の他 人情噺 落し噺等 広いレパートリーで人気を博す
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五代目_古今亭 今輔
(ここんてい いますけ)
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明治31年(1898) 6月 群馬県境町に生まれました
大正2年(1913)に上京 職を転々とを替えましたが
翌 大正3年(1914)に 初代の三遊亭圓右に入門して
(三遊亭)右京(うきょう)の名前を貰いました
大正8年(1919) 三代目柳家小さん の門で (柳家)小山三(こさんざ)
大正12年(1923) 同名のまま 真打と成りました
昭和3年(1928) 師匠の三代目(柳家)小さんの引退に伴い
初代桂文治の門に移り (三代目桂)米丸と改名します
昭和16年(1941)6月 五代目古今亭今輔を襲名しました
努力の人 今輔さんは 昭和39年(1964) 放送作家協会の大衆芸能賞
昭和48年(1973) NHK放送文化賞
昭和49年(1974) 勲四等瑞宝章を受賞されました
「お婆さん物」で人気を博しました
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市丸
(いちまる)
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長野県の松本に生まれました
昭和8年(1933)に 「天龍下れば」がヒット
その後「茶切節」「三味線ブギ」がヒットします
邦楽の下地を活かし 日本調流行歌に新機軸を開きました
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三代目_三遊亭 金馬
(さんゆうてい きんば)
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明治27年(1894)10月 東京の本所に生まれました
大正1年(1912) 19歳 講釈師に憧れて講談師 二代目 放牛舎桃林(ほうぎゅうしゃ
とうりん)
(放手金桃李 或いは 揚名舎桃李とも)に入門。
その頃 東京の貸席で 月1回の「素人演芸会」があり そこへ飛び入りで出演
「軍談物」を一席喋ったのを 客席に居た 初代の(三遊亭)圓歌が聴き
「噺家になっては?」と誘われ
大正2年(1913) 初代の三遊亭圓歌に入門します
大正9年(1920) (三遊亭)園州(えんしゅう)で 真打
大正13年(1924) 二代目(三遊亭)金馬に見込まれて 存命中にその名を譲られる
昭和4年(1929) 日東レコードから出した「居酒屋」が大ヒット たちまち全国に知られ人気が出る
昭和29年(1954)に 鉄道事故で足に怪我をしてからは 前に釈台を置いて高座を務める
昭和31年(1956)には 放送文化賞を受賞
「落語協会」と「芸術協会」があるが
金馬さんは どちらにも属さず 最後迄「フリー」で通し ラジオやテレビで活躍
金馬さんの楽屋内の渾名が「小言幸兵衛」だったと云います
「とにかくガミガミ喧しい師匠だった」と (二代目)桂小南さんが話していたと云います
大の人情家でもありました 「取るべき責任はきちんと取る」
頑固一徹の人だったと云われています
「薮入り」「小言念仏」「居酒屋」等 金馬さんの十八番にしたものが多くあります
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六代目_春風亭 柳橋
(しゅんぷうてい りゅうきょう)
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明治32年(1899) 10月 東京の本郷に生まれました
一家揃って芸事が好きだった事から 寄席の木戸をくぐりました
「いつしか噺家になろう」と夢がありました
明治42年(1909) 四代目春風亭柳枝の門に入り (春風亭)柳童(りゅうどう)
この時11歳でした
初高座は いきなり前座を飛ばして 二ツ目の披露を行いました(*01)
この世界では異例の抜擢で 当時「天才少年」と云われていました
大正6年(1917) 真打に昇進し
大正15年(1926) 2月 (四代目春風亭)小柳枝から 六代目(春風亭)柳橋を襲名しました
(*02) *(*01)初高座は 明治42年(1909)で 二ツ目扱いだった
大正4年(1915) (春風亭)枝雀で 二ツ目に昇進
*(*02)真打で 六代目春風亭柏枝(はくし)を襲名
大正10年(1921)に 四代目春風亭小柳枝を襲名
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五代目_神田 伯山
(かんだ はくざん)
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明治31年(1898) 4月 東京に生まれました
三代目(神田)伯山に弟子入りをして (神田)五山(ござん)
三代目桃川如燕(ももかわ じょえん)を経て
昭和32年(1957)に五代目(神田)伯山を襲名ています
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初代_金原亭 馬の助
(きんげんてい うまのすけ)
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昭和3年(1928)4月 東京の四谷に生まれる
昭和19年(1944) 五代目古今亭志ん生に入門して (初代古今亭)志ん駒
昭和23年(1948) (五代目)むかし家今松 と改名して 二ツ目
昭和30年(1955)5月 (金原亭)馬の助で 真打に昇進
志ん生譲りの軽妙な芸風の一方で 「七段目」等の芝居噺も得意にしていた
又 「鳴りもの」の名手でもあった
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林家 彦六
(はやしや ひころく)
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明治28年(1895) 5月 東京の品川に生まれ 浅草で育ちました
明治45年(1912) 三代目の(三遊亭)圓遊が
(三遊亭)三福(さんぷく)を名乗っていた時代に弟子入りして
(三遊亭)福よし を名乗りました
大正3年(1914) 扇遊亭金八(せんゆうてい きんぱち)
大正6年(1917) 四代目橘家圓蔵の一門で
橘家二三蔵(たちばなや ふみぞう)と改名して 二ツ目
大正8年(1919) (三代目)三遊亭圓楽を譲られ 翌年 同名のまま真打に昇進します
大正14年(1925) 五代目古今亭今輔らと「落語革新派」を結成しますが すぐに解散します
昭和3年(1928) 4月 五代目蝶花楼馬楽(ちょうかろう ばらく)を襲名
昭和25年(1950)5月 一代限りの約束で 八代目(林家)正蔵 を襲名しました
昭和56年(1981) 「正蔵」の名跡(みょうせき)を
林家三平の海老名家に返し 林家彦六と改名しました
(三遊亭)圓朝の人情噺 新作の文芸物等 幅広く 演題も数多くあります
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三代目_林家 三平
(はやしや さんぺい)
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大正14年(1925)11月 東京の根岸に生まれました 父は七代目の林家正蔵
昭和22年(1947)に (林家)三平を名乗りますが
昭和24年(1949)に 父が亡くなった為に
(四代目)月の家圓鏡 後の七代目橘家圓蔵の門下と成ります
昭和26年(1951)3月 二ツ目
昭和30年頃から テレビ番組の司会等で人気を博しました
その一方で 独特の「三平落語」を創り上げました
昭和33年(1958)10月 真打に昇進しました
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十代目_柳家 小三治
(やなぎや こさんじ)
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和14年(1939)12月 東京の新宿に生まれました
高校在学中から ラジオの「素人寄席」で活躍
昭和34年(1959) 五代目の柳家小さんに入門して (柳家)小たけ
昭和38年(1963)に (柳家)さん治と改名して 二ツ目
昭和44年(1969)9月 真打に昇進と同時に 十代目(柳家)小三治を襲名しました
正統派古典落語の担い手として活躍し
オーディオやオートバイ等 多趣味でも知られています
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二代目_三遊亭 円歌
(さんゆうてい えんか)
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明治24年(1891)4月 新潟に生まれました
旧制の新潟中学校を卒業 北海道へ移住して 旅回りの芸人一座に加わって
自分で 三遊亭柳橋(さんゆうてい りゅうきょう)と名乗っていました
その後 巡業中の二代目三遊亭小圓朝と出会います その小圓朝の薦めもあって
大正3年(1914) 初代の三遊亭圓歌に入門して (三遊亭)歌寿美(かすみ)の名を貰います
大正6年(1917) 初代三遊亭歌奴(さんゆうてい うたやっこ)と成って 二ツ目
大正10年(1921)4月 同名のまま 真打に昇進します
昭和9年(1934)10月 師承の名を継ぎました
「将門」「七段目」等の芝居噺 一方 「取り次ぎ電話」「馬大家」等の新作も手掛けました
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二代目_広沢 虎造
(ひろさわ とらぞう)
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明治32年(1899) 東京の芝に生まれました
19歳の時 大阪の二代目広沢虎吉の一門となります
23歳の時に 二代目(広沢)虎造を襲名して 間もなく上京
「虎造節」と軽妙な話術で 二代目玉川勝太郎と共に ラジオ・レコードで活躍しました
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柳家 小半治
(やなぎや こはんじ)
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明治31年(1898) 東京の浅草に生まれました
浪曲の浪花亭峰吉(なにわてい みねきち)の義理の息子で
美声ながら浪曲には向きませんでした
大正7年(1918) 三代目の(柳家)小さんに入門
(柳家)小半治の名前を貰って音曲師に成りました
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三代目_桂 三木助
(かつら みきすけ)
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明治35年(1902)3月 東京の湯島に生まれました
落語家へ成りたいという思いが強く
(六代目)春風亭柳橋(*01)の内弟子となり (春風亭)柏葉(はくよう)
大正15年(1925) 大阪の二代目桂三木助の元で1年程修業します
そして 東京に戻って 昭和2年(1927)10月 (四代目)春風亭柳昇の名で真打ち
昭和12年(1937)頃に「舞踊」に転向するのですが
(昭和)18年(1943)には噺家に戻り 二代目橘ノ圓(たちばなの まどか)を襲名します
昭和25年(1950)4月(*02) (三代目桂)三木助を襲名しました
昭和29年(1954) 「芝浜」で 芸術祭奨励賞を
昭和32年(1957)には 放送文化賞を受賞しています
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四代目_柳亭 痴楽
(りゅうてい ちらく)
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大正10年(1921) 富山県に生まれ 東京で育ちました
初め 義太夫の師匠 豊竹巌太夫(とよたけ いわおだゆう) の内弟子になり修業しましたが
昭和14年(1939)に 七代目春風亭柳枝に入門します
間もなく師承が亡くなった為 五代目柳亭左楽の門に移ります
昭和16年(1941) 二ツ目で (四代目柳亭)痴楽
昭和20年(1945)9月 同名で真打に昇進 戦後初の真打でした
戦後 爆発的な人気があった (三代目)三遊亭歌笑の「純情詩集」と同様の形をとり
「痴楽綴り方狂室」で注目されました
昭和48年(1973) 大阪で襲名披露に参加中に病で倒れますが
平成5年(1993)に「綴り方狂室」「恋の山手線」等を演じました
「ラブレター」「お七」「幽霊タクシー」「野球狂時代」等があります
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梅中軒 鶯童
(ばいちゅうけん おうどう)
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明治35年(1902) 京都市に生まれました
生家は理髪店ですが 幼い頃から浪曲に親しみ
10歳の時には 梅中軒鶯童(ばいちゅうけん おうどう) を名乗って初舞台
師匠はいませんでしたが 昭和10年代には
寿々木米若(すずき よねわか) 二代目広沢虎造
二代目吉田奈良丸などと肩を並べる程の大看板と成りました
長年に渡って「大阪浪曲親友会」の会長を務めました
読み物には「紀伊國屋文左衛門」をはじめ 「吉原百人斬り」「藤堂高虎」等 数多くあります
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初代_京山 小円
(きょうやま こえん)
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明治9年(1876) 広島県尾道に生まれました
三代目京山恭安斎(きょうやま きょうあんさい)の弟子で「京山派」を育てました
明治の末期から大正期に掛けて
初代桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)
二代目吉田奈良丸と共に 第一期黄金時代を創り上げた一人です
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